余白:意識に働くデザイン


僕は「余白」が好きだ。
レイアウトとレイアウトの感覚に施された余白、フォントの文字間・行間の余白、ある対象を際立たせるための余白。僕は、無をデザインとする余白を美しく感じる。
なんで余白を美しく感じるのか、ちょっとした拍子に気が付いた。
自分にもっとも身近な余白を扱う例だと、Webサイトのレイアウト。
例えば、白地の背景にdivタグ等で不可視のボックスを組み、そこへテキストを流し込むと、見えないはずのボックスがそこに在る感覚を受ける。いわゆるゲシュタルトの感覚ってやつ。左右対称の横顔のシルエットの間にある空間が壷に見えるっていうアレです。
視覚的デザインにより組まれたボックスは、それがボックスであると視覚的刺激で知覚できるが、ゲシュタルトの感覚の場合は視覚を通し、脳内で知識・経験・勘(センス)の処理をされた上で「ボックスのような段組だ」という刺激が発生し、それがボックスレイアウトだと知覚する。表面的な視覚ではなく内面的な意識下に働くデザインだ。最近流行ってるようで流行ってない「アハ体験」のごく弱いものだと思う。
自分自身で無のレイアウトに気が付いたというちょっとした優越感、気づいたことによってその整然とした、もしくは規則性のあるデザインにさらに美を感じる。よーするに、人はゲシュタルトを感じた時にちょっとキモチよくなる。
そして僕は、それらを逆算して結果としてゲシュタルトを作り出している余白に美を感じる。


あまり余白を多用すると、人によっては手抜きと感じられる事もあるだろう。前回の内容にも書いたことだけれど、余白を取る意味を説明できればいいんです。モチロンただ「カッチョいいから」以外の二重三重の理論的かつ建設的な内容で。無論無意味な余白は手抜きでしかないけど。
余白ヤバイ。