本質:デザインをするお仕事

俺が仕事をする、というか生きること全てにおいて重視している事の一つが「本質」を捉えるということ。

たとえば「金が欲しい」という欲求に対する本質は、金そのものではなく金によって何かを得ることだ。価値ある「何か」を買うために金が欲しいのであり金そのものに価値は一切無い。金で何かが買えなければケツを拭く紙にもなりゃしない。

ちょっと前に「Webデザイナーとは何たるか」的な記事を読んだが、使用フォントを延々と迷ったり数ピクセルの誤差に悩んだりするのが「デザイナーである」って感じの記事だったけれど、即興的なネタとしてはまぁ共感もしたけど「そういうのがデザイナーである」なんて言うのは本質が全く捉えられていない、デザイナーという職業意識の全く無いクソのような話だと後になってジワジワ感じたんです。

デザイナーである限り「職業」だ。アーティストという自己を表現する「芸術家」ではない。

デザインを依頼するオーナー(クライアント)は大量の食材をかかえて、「甘く」もしくは「辛く」時には「苦く」そして必ず「美味い」料理を出したいと依頼してくる。依頼を受けたデザイナーという料理人は、大量の食材の中から良質かつ必要なものを吟味し、オーナーの意に沿いかつ最適の調理法を思索し、料理を食べる客(エンドユーザ)の嗜好を考慮し、より無駄なく美しく美味しい料理を作る仕事だ。
もちろん中には明らかにマズい味付けを指示したり粗末な食材ばかり持ってくる顧客もいるが、知識と経験や顧客調査などデータの裏付けによる味付け嗜好の提言を促したり、粗末な食材をも美味に調理できる腕があれば問題は無いはずだ。
これはWebに限らず服飾・建築・プロダクト・紙のほか多数「デザイナー」と付く職業全てに言える。

デザイナーはアーティストではないとは言ったが、極限まで高められた個人のデザイナーしか成しえないデザインは、アートへ昇華するとも思っている。顧客の予想・期待を飛び越えた伸びしろは、個人による力だから。しかし当初からアートとして作られたものはデザインには成りえない。顧客が不在だから。

グダグダ書いてナンだけど、デザイナーってのは要約すると
「他者表現:他人の意思をより優れた形で他人へ表現する」
という事が本質・目的だ。さらに言うと、他者表現を心がけて動いている人は誰でもデザイナーと言える。意識レベルで他者の意思をデザインしようとしているのだったら、良い意味で言ったモン勝ちだ。

その点、やれWeb標準CSSだなんてのは製作者自身の都合でしかなく(良いものを作る上での研鑽は当然だし悩みも当然あるが)そういう事に囚われていてこそデザイナー、というのは順序が違う。そういう事もあるのは間違いないが、それは本質ではない。より良い形の他者表現を行う過程で悩むこともあるのがデザイナーだ。この場合「過程で悩むこともある」って部分は差っ引いた方がいいでしょ?本質じゃないから。
ましてやWebデザイナー、WebPG、コーダー(マークアップエンジニア)などの線引きなどクソの足しにもならない考えでしかない。
一個のモノを作る上で他者表現という意識を共有していれば、それに関わる全員をひっくるめて一個の「デザイナー」になる。極端な話、お客さんからすればデザイン担当もコーディング担当も「同じ案件の担当者」ですからね。




あー超主観吐き出した。すごいウンコした後みたい。